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義母の旅立ち
葬儀が終わって気が緩んだのか胃痛と下痢を伴う風邪を拾ってしまった
普段の平熱が36℃ギリギリの私にとって4日続きの37度台はまるでほろ酔い気分で…
と呑気に構えていたら昨日は38.9℃まで上がりさすがに堪えられず解熱剤を飲んだ
昨夜は大量の汗と一緒に熱も下がって今朝は35.8℃やっと平熱に戻った

不調だったのは私だけではなく
長女の息子、とうごは火葬(6日)の前日に発熱したため当日は賢さん(長女の夫)と欠席
次女の娘、ねねも8日の葬儀告別式前夜に発熱で渓さん(次女の夫)と欠席したので
YUKI家一族が揃ったのは通夜の晩だけだった

その後も両家の2人(とうごと賢さん)はノロウィルスに感染し
ねねも一昨日まで園を休んでいた

私の回復が一番遅かったけれどまぁ一番年長だし(笑)
主だった行事が済んだ後だったし…大目に見てもらおう

先にも記したが、義母の葬儀は1月8日に恙なく終わった
全ての親族が帰り、お寺参りまでの空き時間に義父は祭壇の隣に座って両手をつき
「いままで本当に世話になったな ありがとう」と頭を下げた

義父の言ういままでとはいつからなのか、私は分からないけれど
それはとてもとても最近の事からの様に思えた

遺影の義母はそれが一体何歳だったのか身内さえ覚えていないほど若い写真で
13年前と言う人が居れば18年前だと言う人も居た
披露宴の集合写真なのでその気になれば分かるだろうが遂に誰も思い出せなかった

もっと最近で義母らしい画像が数枚あったけれど夫と娘たちから却下された
もう少し主な行事が通り過ぎたら少々ピンボケだけど
一番義母らしい自然の笑顔の遺影(仏壇用)に代えよう
そうでないと今の遺影を見る度、義母とバトルを交わしたあの日が蘇ってくるし(笑)

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在宅介護中、義父には義父の思い出があるように
私には義母と私だけの入院中の思い出話が幾つかある
振り返ればその時は短ったけれど人生は長さではないと改めて思う

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義母が脳内室出血で緊急入院したのが11月10日
私と午前中おしゃべりをした数時間後だった
一緒に救急車で緊急外来へ
救命センターに移動された時は幾分意識障害も薄れていた

その義母がしきりに何かを呟いてた
酸素マスクをつけていたので最初の内はうわ言かと思ったが違う
口元に耳を近づけると「タンタンタン」と動いているのが分かった

もしかしたらあの歌?

私がてをたたきましょう~ と歌い始めると義母はタンタンタンと続けた
 
あしぶみしましょう タンタンタンタン タンタンタン・・・・

あぁおもしろい と歌い終わった時 夫が苦笑いをして見下ろしていた
そうだった ここは救命センターだった…気恥ずかし

同じような思い出が母の時にもあった
夜間点滴を抜いてしまう問題児でその度病院から呼び出しがあった
勿論その時は認知症もかなり進んでいたから無理からぬ事でもあった
車いすに載せられナースセンターに連れて来られた監視下の母は私の顔を見ると涙した

一緒に処置室に移り眠りつくまで子守唄を歌った
後ろで聞いていた娘から「なぜ月の砂漠?」と聞かれたものだ
この歌には母と幼い頃の私の楽しい思い出がある

きっと義母にも「手をたたきましょう」には弟達と何かしらの思い出があるのだろう
元気になったら一度聞いてみようと思ったがそれも叶わぬ事となった

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救命センターから5階の一般病棟に移ったと連絡が来た時は入院からわずか3日後
夫と私は結婚式の披露宴のテーブルに付いていた
 
今までもそうであったように今回もきっと予定内に退院出来ると誰もが思ったものだ

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11月14日
一般病棟に移った翌日、酸素も口から鼻腔に変わり相変わらず聞き取れない口調だが
天井を指さし「だんご だんご」と呟く
私は団子が食べたいのかと思ったので
「元気になったら差し入れに持ってくるから」と言ったが
そうではなく義母の視線の先にウサギが餅つきをしている絵が吊るされていて
その絵の下に三方に乗せられた団子の絵があった
義母はこれを見てだんごと言っていたのだ

入院して4日目 何も口にしていなかったので本当に食べたかったのかな?
「あまり食べると太るからまた先生に叱られる」と言った

今思うと入院前の半年は異常なほどの食欲だった
体重増も半端なかったろうに主治医の受診はいつも通り
「もう少し体重を落とさなきゃ」そう言っていつも通りカルテを閉じた

主治医と義母の付き合いは30年以上続く
何度も担当医を変えるよう説得してみたものの結局最後まで聞き入れてもらえなかった
これも一途にこの医師から離れられなかった義母の運命かもしれない
余命一か月半、内科から脳外科に変わりやっと担当医師が変わったが
結局最後まで薬漬けの治療しか術はなかった

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翌15日 振り返ってこの日が一番元気な(変な表現だが)義母だった
そしてこの日が普通に会話出来た最後の日になった

緊張感も薄らぎ、ついあくびをしてしまった
「YUKIちゃん、私が代りに起きててあげるからちょっと此処で寝ていいよ」と言った

笑った 声を出して二人で笑った
救命センターで歌を歌った以来和やかな気持ちになった
そろそろリハビリも始まるかな…そう思いながら帰った

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その日を境に義母の容体は少しずつ悪化してきた
高熱が続き痰の量も増え始めて会話も殆ど出来なくなった 
20日の夕方 更に呼吸困難になり
気管からチューブを挿入する人工呼吸器が取り付けられた
この時も全身麻酔下だったので意識はなかったが
麻酔は2日後止められ直ぐに覚醒出来た

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意識が戻った義母はこの時の検査でMRSA感染患者であることがわかり
救命センター内の個室に移された

ここからの時期がきっと義母にとっては何物にも代えがたい
心身共に苦痛を味わっていたと思う
喉の違和感としゃべれないというストレスは計り知れない
発声が出来ない
伝えたいことがあるのに皆が不可解な顔をする
義父にあからさまに感情をぶつけたのもこの時だった

たった一度だけ義母と短い会話ができた
口パクで吐き出すような言葉は「YUKIちゃん(私)と幸(息子)に…」
その後の会話は何度聞いても理解出来なかった

義母は一体何を伝えたかったのかと今でも夫が話題にする
互いに普段の会話から思い当たる節が一つ でももうそれも確かめる術もない

12月上旬流動食も始まり二度ほど人工呼吸器を外す試みを行ったが
酸素量を下げると肺に二酸化炭素が溜まって自力呼吸が出来なくなってきた
そしてMRSAという細菌が徐々に義母の血液に悪さをし始めた


運命の日の12月8日 義母は激しい痙攣を起こした

この日から約3週間
義母がモニター上で生命を維持していたのは義父への感謝の気持ちだったと信じたい
亡くなって強い喪失感を抱かぬようにするには義母が細くそして出来るだけ長く生きる事
その義母の頑張りで義父は今まで制限していたゲートボールや
同級会などに積極的に参加する気になっていった

           ***
年が明け1月1日 私はともかく夫が元日に祝い酒を飲まぬ事は過去なかったろう
しぶ~い緑茶で病院に出かけた
その夜 義父が我が家に泊り新年会
今後の生活について義父からの思い(同居)を伝えられたが
まだその時期でないと保留にした

           ***
2日の早朝病院を訪れ今日はもう来れない言を義母に伝えて病室を出た
9時半に父が迎えに来てくれて実家に向かい新年会
昼を過ぎ、定刻の時刻に父の家を出て駅の集合場所に向かった

遂に37年振りの中学の同窓会(同年に卒業した生徒のみ)に出席出来た♪
296名の卒業生の内、出席者は3割 青森から駆け付けた旧友も居た
クラスは違うが既に亡くなってしまった旧友も5人ほど居て黙祷を捧げた
神様はどうして人の寿命を平等にしてもらえないのかな…

一旦パーティーが始まると会食はそっちのけで夢中で話し 笑った

あっという間に3時間は過ぎ、ふと携帯を見ると着信メールが2つ
一つは夫からで「2次会に参加して来いよ」とあった
もう一つは次女からで「母さん楽しんでいるかい~!」とあった

正直参加に気持ちが固まりつつあった
夫の許しもあるし友の誘いを受けて2次会会場バスに乗り込もうとも思ったが
夫に電話を入れた時は気持ちと反してこのまま帰宅することを伝えた
今思えばこれが胸騒ぎだったのかな

「半分出すからタクシーで帰って来い」
と言われたが10キロの道のりをタクシーで帰ったら幾らよ?(全額負担なら即決だったけど)
結局駅で40分待ち(1時間に1本しか運行されないローカル)
到着駅からタクシー待ちでスムーズに帰れなかったけれど(笑)

その晩は夫よりも早く就寝してしまった
37年の時を経た少女は1次会で全ての体力を使い果たしてしまっていた

           ***
3日 病室に入っていくと既に義父が来ていて真っ先に前夜の会のどうだったと聞かれた
楽しかったよと笑みを浮かべながら義母のベッドに近付いて挨拶の言葉が止まった

義母は枕の代りに防水シートが敷かれていた
訳を尋ねると昨日の夕方、流動食を吐いたと言う 丁度私が会で盛り上がっている頃だ
いつもなら義父から夜の様子の連絡電話が来るのに、そう言えば昨夜は電話がなかった
多分楽しんでいる私を気遣ってくれたのだろう
ありがたいとは思ったが嘔吐…嫌な予感がした

昼に担当医と話し合いをして自宅に戻って数時間後義父から危篤の連絡があった
まだ暫くは大丈夫だと言われたが容体は急変し血圧が下がり始めた

もしかしたらこの日を逃したら義母は娘たちとは会えなかったろう
心残りはきっと可愛がった娘たちにも看取られたかったのではないのかな
4人の孫たちはそれぞれの父親に預けて夫と娘たちと私が病院へ向かった

病室のドアを開けた時、丁度看護師の心臓マッサージを受けていた
直ぐに血圧を上げる昇圧剤が使われた

一瞬にして下がった血圧は110まで上がったが
それはモニターの数字が一時上がっただけで再び下がり始めた

今度は医師が心臓マッサージを行ったがこれも限界が(胸骨が折れる)あると言われた
さらに血圧が下がり始めたので再び昇圧剤を看護師に指示した
堪らず義父と夫を見た 二人の視線は義母にあって動かない


「先生 ありがとうございました もうこれ以上の治療は止めてどうか自然に」
母の時と同様に誰かが終止符を打たなければ無意味な治療になってしまう
嫁の私がでしゃばったけれど、義母さんこれで良かったんだよね?

医師も看護婦もその場で見つめていた
長くはなかった 80あった血圧はすぐに40に下がり 
モニターの数字が0を示した時、義母の心残りも消えた気がした

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最後まで読んでくださってありがとうございました
私にはとうとう、母と呼べる人が居なくなり父ばかり残されました
この二人がまた…個性的で、夫を含めさらに私の人生は忙しくなりそうです

楽しかった事
ちょっと吐き出したい事
翔&迅の事
大好きな娘や孫たちの事 などなど画像を交え話題豊富なブログになったら良いな♪

本年もよろしくお願いします

YUKI
by r-petal | 2011-01-14 19:10
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